あの日

2005年1月17日
10年前のあの日も、月曜日だった。
あの日のことは、まるまる一日の時間としてとてもよく覚えている。
朝起きると、母におしえてもらった。
「関西のほうで大きな地震があったみたいよ」
「そうなんだ。」
あのときは、そんな風にしか思えなかった。
だって、地震であんな事になるなんて、思ってもいなかったんだもの。
私が家を出るのは7時ちょうど位だった。
多分日の出時間直後だったと思う。
7時の時点でのニュースでは地震があったことだけしかわからなかった。

会社につくのは9時少し前。
会社についたとたんに、たくさんの電話を受けた。
どれも「無事です」の報告。

その頃勤めていた会社では、ちょうど販促時期だった。
前日から各地に何人もの人が散らばっていた。
京都、大阪、岡山、広島、そしてもちろん神戸も。
「池田です。すごくゆれたけど、無事です。一応今日は販促回ります。」
「高山です。こちらは大丈夫でした。」
「岩田です。ゆれは大きかったけれど大丈夫です。一応ご報告します。」
あの頃は営業部はもちろん出払っていて、お留守番部隊にはクボさんと私と倉庫のおじ様が二人いるだけだった。
だから、それらの電話は全て私がとっている。
みんなして、何のことなのかと思っていた。
そこに同じく前日から九州入りしていた社長から電話が入った。

「連絡ありましたか」
「はい。この人たちからありました。」
「三枝さんからは?」
「まだです」
「そうですか。もう出かけますので、またかけます」
「はい。わかりました」

社長までいったいなんだと言うのだろうと思っていた11時ころ。
三枝さんから電話が入った。
「三枝です。無事です。怪我もありません。テレビがね、飛んできたの。びっくりした。電話もすごく並んでいて、やっと順番が回ってきた。一応報告までです。また連絡します。」
そう言って彼女は最初の電話を切った。

そのすぐ後だったと思う。また社長が連絡あったので三枝さんからは無事だと連絡があったことを伝えたら今度は
「何か食べたり出来ているのかな?」
「さぁ、また連絡すると言っていたので、そのとき聞いてみます。」

会社にはテレビがなかった。
現地の状況、明るくなってはっきりする被害状況を伝える映像。
それらから隔離されている私達は、訳がわからなかった。
一度だけ外回りから帰ってきたおじさんがラジオで火事が起こっているらしいとの情報を得てきただけだった。

帰り間際、もう一度かかってきた三枝さんからの電話で、
朝、ホテルでオレンジジュースが一杯配られたけど、それしか口にしていないこと、今日はそのままホテルにいると伝えられた。
もちろん、社長にはホテルにFAXで一日にあった報告を整理して送っておいた。

驚いたのは家についてから。
はじめて見る映像にただただ、驚いた。
一日にあった、人々の報告の意味がそこでやっとわかった。

三枝さんは翌日まるまる1日かけて大阪までたどり着き、さらにその翌日東京に帰ってきた。
そして、そのまましばらくお休みした。

前日の日曜日に学校の合宿で神戸を出た高校生がいたり。
そうかと思うと三枝さんのように前日に神戸入りした人もいた。
人生は人の運命はいろいろあると、とてもとても感じた出来事だった。

私の中では「阪神大震災」というと「三枝さん」が最初にイメージされる。
あのあと、大きな地震があるとすぐに「大丈夫かな?」と心配になる。
私は経験していないけれど、やはりあのときの記憶はいろんな意味で、人の心に大きな何かを刻んでいる。

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